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分かりにくい演劇

以前にも書いたが、観劇をする際、私の脳内は小学生になる。役者の名前は中々覚えられないし、目に見えない感情よりも目に見える表情や声色ばかりに注目するし、隠された意図のようなものを感じ取ることが出来ない。というか、感じ取ろうとさえしない。結局、なぜ役者が悲しんだりしてるのかは、しっかりその理由を明確に説明してくれなければ、その泣き声はただのノイズのようにしか捉えられない。

だから、私は一般に分かりにくい演劇(ストーリーの筋が分からない、場面や人物の説明がない、非日常的な台詞回し)が苦手である。しかし、そう感じる演劇人は意外に少ないのではないか?とも思う。というのも、私の身の回りには「言葉では説明しきれないものが感覚的に伝わる感動」を大切にする演劇人が多いし、そういう魅力を感じて脚本を選んだり、書き始める人もいる。

「言葉で伝わらない感動は言葉では伝えられない。」そう言われると、実際にその舞台を見るしかないのだが、それが分からない自分はどうやってその舞台に向き合えば良いのかわからなくなる。そういう時、「色々見ればいずれ分かるようになるよ。」という言葉を信じるしかない。

 

しかし、言葉では説明できないものを、言葉やジェスチャー等で説明しよう(伝えよう)としてこそ、表現というのはより高められるのだと思う。そこには葛藤があるし、葛藤が演劇の価値や魅力を高めるのだと思う。それを最初から「言葉じゃ伝わらないから伝わらないままでも良いや」とか「自分にも分からないからなんかカッコいい言葉で濁しておけ」みたいに表現する事を放棄してしまうと、やはりそれは違うようにも思う。

 

世にいる演劇人や詩人達はどこまで、そういった事に挑戦できているのだろうか?