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詩が大切なのに、読み深めないのはなぜ?

 今日は最近作っている映像作品について書く予定だったが、思いの外、昨日書いた記事に反響があったのでより深めて書く。

 

 音楽の先生や指導者から「コンクールに向けて詩を読込みなさい。」と指摘されることは良くあるだろう。しかし、そうしたところで特段、歌が上手くなった実感が湧かないと思う方は多いのではないだろうか?その経験から、読み深めるのは放棄してフィーリングだけで歌う人もいるだろう。

 確かに詩を読み深めるのは難しい。でも、なぜ難しいかを的確に説明できない人は多いはずだ。その理由は合唱という表現の特殊性にあると思う。そこで(かなり強引ではあるが)演劇という視点から合唱における詩の在り方を書こうと思う。

1.詩を朗読するのは難しい。

  まず、歌に使われる詩の形式の言葉を日本人は日常的に表現する事がない。わかりやすいように説明する。仮に、あなたが演劇の舞台に出るとする。シチュエーションは卒業式。あなたは卒業して、離ればなれになる同級生に対して「今別れの時、飛び立とう。未来信じて」というセリフを言わなければならない。この時、(あの有名な歌を使わずに)どう話しかければ良いだろうか?

 恐らく、そのままの勢いで言うとなんらかのスローガンを啓発しているような変な人に見えるだろう。このセリフを日常会話のように見せるのにはとても苦労するはずだ。日常会話で「飛び立とう!未来信じて!」という言い回しをするのは一部の政治家とか宗教家のお偉いさんくらいだ。「希望」や「愛」といった言葉は、日常では恥ずかしくて発せられない。でも、合唱に限らず、歌の中心となる言葉はそういう言葉や普段は表に出さない直接的な感情表現が多く占められる。

 普段話されない言葉を深めるのは難しいし、普段しない事をリアルに想像して表現するのにも人間は慣れていない。だからこそ「詩」を読む・解釈する作業が大切なのだ。

2.集団で言葉を発するという非日常感

 そして、普段話さないセリフ(詩)を、合唱では集団で声を合わせて発声する。通常、一人で読む詩の感情を集団で読むというのはより一層実感の湧きにくい不思議な行為である。演劇でも同じセリフを複数人で一緒に話すという演出が取り入れられることが時々ある。が、それを見るとかなり異質で非日常的な印象を受ける。下に載せた動画は私が大好きな劇団「柿喰う客」の『天邪鬼』という作品だ。(動画の2:54~がわかりやすい)

 集団で朗読するのは、セリフや詩のイメージがより強く伝わってくるし、言葉に凄みが出る。実際、それだけでもう立派なパフォーマンスだ。しかし、このようにセリフを群読することは到底容易な事ではない。アクセントや話すスピード、間の取り方はそれぞれ全く違う再び上に挙げた「今別れの時〜」の例で説明すると、1人で朗読する場合には、あなたの自由なタイミングで言い方で話すことができる。別れの悲しみが溢れ出て涙を流しながら話すという表現をやっても良い。それはそれで心の打たれる表現になり得る。

 しかし、もし役者が100人いたとして、それぞれが言葉をピッタシ合わせる(特に感情が溢れ出て泣いたり怒ったりする場面)のは現実的に考えて不可能だ。その中で、なぜ合唱では100人以上の大人数でも声を合わせられるかというと、合唱にはリズムあるからだ。

3.リズムが表現の幅を拘束する。

「天邪鬼」にもリズムの要素があるのが分かる。リズムがあると何となく心地良いし簡単にセリフを合わせることができる。一方で、リズムに乗って言葉を発すると、朗読するものの表現の幅が縛られるという問題が発生する。一人では表現できた「涙を流す」などの自由な表現が群読ではできなくなる。つまり、リズムという殻に感情が封じ込められてしまうのだそれを解決するために、敢えて変拍子を取り入れ自然な日本語のリズム感に近けた曲はいくつかあるが(木下牧子先生の「流星」など)それでも完全にリズムから感情を解放させるのは中々に難しい。

4.更なる表現の拘束

 もちろん、合唱にはリズムだけでなく、メロディーやハーモニーがある。それらは感情を表したり空気感を作り出すのにぴったしではあるが、声の出し方や、他の唱者と音を合わせる意識によって、本来の詩の朗読による表現はより一層強く拘束される。

 そうすると、詩の解釈は置いといて、音楽として正しくあろうとするのに躍起になりやすくなる。音楽を深めるだけでも十分に時間がかかる。でも、音楽だけをやりたいのなら歌に詩を入れる必要はあるのだろうか?(歌詞のない曲もある事にはある)

 しばしば詩の朗読がおざなりになるのはこれらの要因から来ると考える。

まとめ

 1.詩を朗読するのがそもそもが難しい。

2.複数人で声を掛け合わせると凄みが出る。が、

3.タイミングを合わせるためのリズムに表現の幅が拘束される。

4.加えてメロディー・ハーモニーに気を取られ、より詩への意識がなくなる。

 

歌において、詩を読み深めることは大切なのに積極的にそれができなくなってしまうというのは以上のためだと考える。合唱は一見簡単そうで誰もが参加できるものであるが、ここまで突き止めようとすると相当ハードルが高い表現だと思う。

 もちろん、歌に対しての捉え方は人それぞれであるし、皆さんが個別に歌の詩の在り方について考えて頂ければ幸いである。